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姫路剣道連盟沿革
-姫路の剣道復興史ー
明治後期、京都に本部を持つ大日本武徳会は武道の奨励と質実剛健の気を養うため、各地に武徳殿の建設を進めていた。軍都姫路もこの要請を受けて明治四十年、西魚町(いまの大蔵前町児童公園)に姫路武徳殿が建てられた。しかしながら、武徳殿は昭和二十年の戦災で全焼、濠も埋められているから当時の面影は全くとどめていない。
昭和二十一年、連合国軍総司令官の指令により、学校及び公私の組織で剣道を行うことが禁止されたにもかかわらず、各地の剣道愛好家は、剣の道への情熱を燃やし続けた。昭和二十二年、長野充孝(範士九段)のもとに門弟及び愛好が集い、稽古を始めた。稽古場所は国鉄姫路保線区内の空き地だった。昭和二十三年、剣士たちの情熱に心を動かされた竹田二郎(元まねき食品株式会社社長)の厚意により、まねき食堂ビルの屋上での稽古が始まった。こうした状況の中で、姫路市体育協会に加盟するために組織を結成しようという機運が次第に芽生えた。そして昭和二十三年五月一日、「剣道競技連盟」として姫路市体育協会に加盟した。
まねき食堂ビルの屋上での稽古は二十四年当初まで続いた。以来、明和ホテルのロビー、旧陸軍の兵舎、旧警察署道場、旧国鉄道場、少年刑務所道場などを転々と移り、剣道愛好家にとって、安定した稽古場の確保は、悲願ともいうべきものであった。昭和四十二年より姫路剣道連盟理事長に就任した霞末正一は、武道館建設のため、河内瀧夫(広畑自動車学校元校長)らとともに、東奔西走した。建設趣意書の作成、用地確保のための市長との交渉、財団法人の設立、建設資金の調達等、まさに粉骨砕身した。そして、昭和五十三年三月、積長年の悲願がかない、姫路武道館が竣工されたのである。
参考資料:姫路剣道連盟創立五十周年会誌
平成十二年三月吉日
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